AFTER5

がんや難病の「5年生存したら、その後どうなるの?」を伝えるメディア

がんや難病の「5年生存したら、その後どうなるの?」を伝えるメディア

肝臓がんステージ4の告知から20年。働き方や家族とも向き合い続ける志賀さんの記録

がんや難病などを告知された患者さんの「告知から5年以降」の情報を集めていく「AFTER5(アフターファイブ)」。第5回記事の公開です。

今回は、25歳で肝臓がんステージ4を罹患し、その後20年が経過した志賀俊彦さんにオンラインインタビューを行いました。バリバリと働いていた中でいきなりの告知、働き方の変化や病気の後に生まれたお子さまへの伝え方、20年以上経過した現在に改めて思うことなどを伺いました!

インタビュー日: 2020年3月

プロフィール

Zoomによるオンラインインタビューを実施。上段が志賀さん。
  • お名前
    • 志賀俊彦
  • 年齢・性別
    • 1976年生まれ・男性
  • 家族構成
    • 妻、娘、息子
  • 病歴
    • 2001年肝臓がんステージ4、抗がん剤をはじめ様々な治療をし肝臓の7割を切除。翌年再発、陽子線線治療を経て、現在は経過観察のみ。

病気と治療について

── 病気が発覚した経緯を教えてください。

わたし本人より先に、家族に伝えられました。

2001年、25歳のとき、お腹が痛くなって病院に行ったんです。胃潰瘍か食べ過ぎかなと思って。そうしたら、すぐ入院してくださいと言われました。

検査をして「肝臓が良くない」と分かり、両親と同居していたことを伝えると、呼んでくださいと言われました。先生は最初に両親に話をしたんです。それを聞いた親は、本人には言わないでくれといったので、先生は私に直接話をしなかったですね。

その病院では手がつけられなかったので、大学病院を紹介してもらって、入院して検査を始めました。進めていくうち、だいぶハードなものですから、これは普通の胃潰瘍や腹痛ではないなと思って。主治医にちょっと鎌をかけて聞いたら、大きな病気だというのが分かったという感じです。

── どんな心境で受け止められましたか。

身の回りにそういった病気をしている人がいなかったので、自分が病気でも他人事みたいな。そんな感覚でいました。

── 「ハードだった」というのは、具体的にどういった内容だったのでしょうか。

最初に親から聞いた話では、1週間くらい入院して様子を見るということだったんです。けれども、実際には毎日何かしらの検査が入っていました。

まずは主たる原因が掴めないという話で、その検査。肝炎ウィルスなどもまったく持ってなくて、何か病気が隠れているんじゃないかと、治療に入るまでの準備が大分かかりました。

胃、肺、頭や脳も、骨も全身の検査をして。一番きつかったのは、肝生検です。最初は針で刺してちょっと取るぐらいの話で聞いていたのが、蓋を開けてみたら全身麻酔でした。もうほぼ手術ですね。実際に開腹して、部分的に組織を取るという形で。

全然聞いていることと違うなっていうのがあったので、これは何か隠している雰囲気だと感じました。それでお医者さんに病名を聞いたという流れです。

── 結果的にご両親が隠していたとも受け取れますが、そのことについてはどうでしょうか?

仕方ないかな、っていうのがあります。当時も今もそう思っています。

── その後はどのような治療をしましたか?

全部検査して、肝臓だけが悪いって分かってからは抗がん剤をしたりとか、色んな治療を開始しました。手術では、肝臓を7割切りました。

── 入院中、よかったことを教えてください。

たくさんのお見舞いと家族からの弁当の差し入れです。

── お見舞いに対する抵抗や、弱っている姿をみられる抵抗はなかったですか?

あんまり自分で弱っているという自覚がなかったものですから(笑)。抵抗はなかったですね。基本的に暇だったので、誰かしら来てもらった方がありがたかったです。

── その後再発などは。

実は、翌年に再発して、もう1回治療をしました。初回の手術で肝臓を7割切ったので、2度目の手術はできませんでした。ちょうどその時、治験で陽子線治療(現在は標準医療として認可)の話があったんです。それを実施したところ、うまく効いて、そこから19年経ちました。

── 約20年経って、その間の感情を振り返っていただけますか。

あんまり感情に変化ってないと思うんです。

先生からも最初の5年くらいはまた必ず再発しますとずっと言われ続けていて、実際に一度再発して。治験が結果的にはうまく行きましたが、またなったらなったでその時に考えればいいかなという感じで、今も同じような感覚できています。

── 現在は何か治療されていますか?

今は1年に1回の経過観察だけです。

術後に腸閉塞になり、いまだに腸が弱いので食事は気をつけています。先生には、ごぼうとわかめとこんにゃくは気をつけろって言われています(笑)。病気をする前から酒も煙草もしなかったので、それは今も変わらずですね。

学生向けにお話をする様子(ご本人提供)

仕事について

── ご職業を教えてください。

会社員です。正社員で勤めていまして、業種でいうと建設業です。

病気になった当時は、旅行代理店に勤めていました。

── 治療の際、どれくらい休職しましたか? 具体的な流れも教えてください。

1回目の治療の時が7ヶ月、2回目が1ヶ月でした。

病院に行ったら即入院で、そのまま外に出られない状態になってしまったので、仕事もほぼほぼ丸投げでした。まわりの方たちがサポートしてくれて、なんとか処理してくれたみたいな流れです。

当時、外回りや営業、添乗員など、体力を使う仕事をしていました。病気をした後は、まずは内勤の方に回してもらって、ある程度体が慣れてからは外回りだけに専念という形で仕事をしていました。

── 復帰する際に困ったことや、こうしてほしかったということはありますか?

本当に迷惑かけてしまったと思っていたので、助けてくれてありがたいという感謝の思いが強かったです。

ただそれと同時に、元々はバリバリやっていたのに、病気の後は仕事の優先順位が自分の中で下がっていることに気づきました。モチベーションが上がらないというか。そういう部分もあって最終的には辞めましたが、働き方に悩んだっていうのがあります。

── 現在の会社への転職の経緯を教えてください。

旅行代理店の後、今勤める建設会社の前に、別の商社にいました。

そこへの転職の際は、地元で細々と働ければいいっていう感覚を持っていたんです。入社の際、具体的な病名も告げませんでした。全国的にも有名な会社ですが地元採用だったのですが、組織変更などがあって、もっと色んな場所へ行って頑張りなさいと言われてしまい…… 私はそんなの求めてませんと伝えて。

そんな矢先に、取引先(今勤めている会社)が「うちにくればいいじゃん」と声をかけてくれまして。ちょうど自分で患者会を始めて、地元で新聞やテレビに出たり、顔バレして病気を隠せない時期でした。

現在の会社には、仕事を頑張るけれども患者会もやっているので理解してほしいと、非常に押しつけがましいお願いをしました(笑)。そうして分かってもらって、入ったという感じです。

ご家族について

── 現在の家族構成について教えてください。

かみさんがいて、子供が2人(中1の娘、小学校2年の息子)います。

── 奥さまには、どのタイミングでご病気について共有されましたか?

この病気をした段階でもうお付き合いしていたので、全部知っている状態でした。

── そうなんですね! お子さんには志賀さん自身の病気についてはお伝えしているんでしょうか。

上の子には、小学校1年の時に話をしました。

一緒にお風呂に入っている時に、お腹の手術痕を見て「何?」と質問されたのがきっかけです。

もっと小さい頃は聞かれてもごまかしていた部分もあるんです。それがあるとき、本当に何なんだと、何か隠しているんじゃないかと、いよいよ聞いてきました。いくら子供でも、もうごまかしが効かないんだなと思ったので、こちらも誠意を持って答えてあげようと話をしました

── それを聞いて、娘さんはどんな感想を持たれていましたか?

最初はショックを受けて、死んでしまうのかというような印象を持っていました。

その後、すぐに亡くなるとか、そういうことはないと伝えて。ただ、こういった病気の特性上、いつどうなるかわからないから、そのときはまた考えようねみたいな形で話をしたら、意外と落ち着いて理解してくれました。

── 今も病気についてお子さんと話すことはありますか?

東京などで患者会やイベントがあると一緒に連れていってます。同世代の子から見たら、がんに対する知識や意識というのは高いかなと思います。

逆に下の子は小学校2年で男の子なんですけれども、伝えておりません。あまり興味がなさそうなので(笑)、向こうから聞いてこない限りは言うつもりもないです。

── 娘さんに伝えたことで、振り返って思うことはありますか。

子どもの方から、教えてほしいというのが伝わってきたので、ごまかしてもしょうがないという思いがありました。持っている情報をすべて教えたので、逆にそれが向こうも安心感に繋がったみたいで、結果的にはすごく良かったと思っています

患者会について

── 患者会を立ち上げた話がありました。どういう経緯だったのでしょうか?

病気をしてすぐの時に、同じような境遇の人はいないのかとか、病気の経験を活かせることはないかなと、色々調べたんです。でも20年も前で、今以上に患者会なんかなくて。

インターネットが発達してきた中で、実はきっかけになったのが「キャンサーペアレンツ」です。西口さんという方が、子供をもつ親のがん患者が集まるコミュニティを作っていて、それがきっかけです。そのオフ会とか参加するようになったことと、同時に地元の新聞で外に向けて自分のがん体験を話す人を募集する記事を見つけました。そこに行ってみたら、引きずり込まれたっていう(笑)。

引きずり込まれるだけでなく、代表もやってほしいと言われて、運営もするようになりました。

講演活動中(ご本人提供)

── その患者会について詳しく教えてください。

茨城がん体験談スピーカーバンク」という会です。

がん種は問わなくて、がん経験している人、もしくはがんのご家族を介護した経験のある人を対象に、自分の経験を外部で話すという会。年齢も性別も問わなくて、私が入ったときは私が一番下でした。お陰様で、だいぶ若い人も入ってきてくれて、この間も大学生の子がきてくれて、最近は年齢層が徐々に徐々に下がってきています。

── 病気の者同士で話すと、患者会は中身が見えずに参加しづらいという声も聞くのですが、いかがでしょうか?

うちの場合は、外に向けて情報発信することに力点を置いてるので、喋りたい人が集まってくるんです。

私は基本的には、来る者は拒まず、去る者は追わず、です。見学だけでも良いし、何回か参加してみて合わないなと思ったら、フェードアウトしていただいても構わないし、ゆるく、あまり縛りをつけないでやるようにしています。

どこの患者会でもあると思うのですけど、代表がいなくなると会そのものが立ちゆかなくなるので、常に誰かに次の代表を引き継がせられるようにしています。自分だけが運営するんじゃなくて、みんなで運営するような形へもっていくようにしていきたいと思っています。

治療を経て、現在闘病をする方へ

── 20年経過して、当時のご自身に今伝えたい事を教えてください。

焦らないというか、平常心でいれば良いということを伝えたいですね。

やっぱりどうしても病気の告知を受けたら動揺します。私の場合、病気が進行してたってこともあったので、本当にこれが自分の体なのか、どこか他人事のようにずっと治療を受けていたんです。結果的には、それがすごく良かったと思っていて。本当に自分のことだって置き換えちゃうと、もっと精神的に落ち込んだりしたのかなと思うんです。そういうこともなく平らな気持ちで治療を受けてきたので、結果的にはうまく回っているのかなと。

── 20年という長い期間が経過している中で、当時と現在のがんや治療に対する世間のイメージは変わりましたか?

それこそ病気をしたときは、会社からも周りからも、たぶん死ぬって言われていました。それがもう今では、テレビなどの影響で「2人に1人はがんになる」と知られた時代になっています。がんが、より身近なイメージになってきているのかなと思います。みんなががんについて知って、偏見がなくなると良いなと思います

学校など、外で自分の経験を話すというのも、そういう思いがあってやっていますね。

── それでは最後に、現在同じようなご病気で闘病されている方に、治療を乗り越えて20年経過した先輩として、何かメッセージがあればお願いしたいです。

やっぱり信じるのが、自分を信じるっていうのが一番大事だなっていう風に思います。

お話を伺って

ありがとうございました!

これまでお話を伺ったなかで、一番の先輩となる病後20年。AFTER5のメンバーとしても、とても貴重な機会で、病気からの時間が浅い者にとっては心強く感じました。

この20年の間に、がんに対する世間のイメージの変化、患者会やインターネットコミュニティの発達など、数えきれない変化がありました。その変化は、医療者の努力と、わたしたち患者によって成り立っていると思います。

AFTER5では、引き続きインタビューに答えてくださる方を募集しています。あなたの体験が、誰かの希望になります。ご協力ください!